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マーメルダイバーズ
    
連絡先:マーメルダイバーズ
palaudivers488@gmail.com
ライン:tatamix76
WeChat:tatamix88
パラオ内
TEL680-488-8029
日本内
海外出張中

日本が安い

パラオのマーメルダイバーズは、直予約のお客様と中国のダイバーさんで賑わっております。台湾人のスタッフのヒーローを筆頭に、中国人のトニーなどのスタッフも加わり、マネージャーの須藤を中心に新しい力が育っている段階だと思います。中国の先行き不透明感や、パラオ政府の増税政策など不安要素もありますが、ガソリン代の下落もあり順調にスタッフも楽しく仕事しているようです。

小売業のTRSは、タトゥーの卸業でのフィリピン一位は不動なものとなり安定して運営してます。スケートのカテゴリーは、新規参入のお店も多くまだまだ混沌としてますが、ミャンマー店が少しづつではありますがアパレルが動き始め今後が楽しみです。 それよりも大きな売り上げを記録しているのが、この半年で新規オープンしたマリキーナ、ブラカン店も含めた全フィリピンの各5店舗で人気の日本の商品の品々です。日本は長年のデフレと最近の円安、それに加えた商品への信頼の高さから、色んな各分野での商品へのニーズが高く、それらを各店舗で販売しております。 すべて日本語表記の為店舗での説明や、スタッフへの教育など手間はかかりますが、今後の成長カテゴリーと捉え更に投資を拡大していく方針です。

最後にパラオダイバーズネットは、今まで通りにホテル手配、ツアー手配などを中心に行っております。一時中国人ツアー予約でホテルが取れない時期もありましたが、今回の株安などの影響などもあり落ち着きそうです。ただ、ホテルのオーナーが次々と中国人に変わっているので、その後の予約管理や電話での会話やり取りに問題があることもあり、時間かけて調整も必要になってきています。

まだまだ41歳、体と頭が動く限り思いつくことをやって行こうと思います。おかげで仕事を通じていろんな方と知り合い、一緒に美味しいお酒を飲める時間を大切にしたいと思っております。

==============================TRS飛躍のわけ 2014-05-08

TRSのホームページのドメインをキャンセル、今後ホームページでの運用をゼロとします。タトゥーの卸業者として2年前の5月にボラカイ店をオープンしてから、店舗販売はもとよりホームページでのカタログ販売、フェイスブックでの告知型販売をやってきましたが、半年もしないうちに圧倒的にフェイスブックでの販売が急激に伸びホームページはその運用の手間のほっといていました。たまにメールで問い合わせあるものの、業務の効率化のため全廃いたします。

フェイスブックでのページは下記アドレスです。 https://www.facebook.com/TattooRepubliqSupplies https://www.facebook.com/trsskateandapparel

フィリピンでのタトゥー卸業者は2年前までは、大手2社その他小5社ほどの競争でした。大手の2社はまだフェイスブックが爆発的に普及する前からやってるため、紙媒体のカタログやウェブサイトでのカタログ販売に注力してる最中でした。その時期に乱入してきた当社はフェイスブックの普及スピードにかけ、フェイスブックに販促にかかる時間をすべて集中させました。他社がお客様の問い合わせに対して、お金も時間もかけたウェブカタログでの購入を強制、在庫連動できてなくシステム自体に不具合も多く使えませんでした。これに対して、フェイスブックのチャットですべて速攻対応、これが当社のフィリピンでの成功の第一の理由です。

今後もどうなるかはわかりませんが、新しいネットでのメディアでの動向には常に注意しています。ミャンマーはフィリピンほど英語が普及してないためにフェイスブックの利用%も少なく、もっと地味な足で通う営業方法になるでしょうね。場所、タイミング、流行り、人、いろんな要素が噛み合ってこそ成功するビジネスはホントおもしろいですね。 ただ店舗出店が3ヶ月ごとと出費もかさみいつも金欠ですが。


========= TRSヤンゴン店オープン=====2014-04-02

発展著しいミャンマーのヤンゴンにTRSを5-6月にオープン予定です。テナントや営業許可などはすべて取得済みで、あとは仕入れと改装のみとなりました。鎖国からたったの2年のミャンマーの変化を日々見れるのが楽しみです。



=====セブ店一時閉店2014-03-14
fラモスストリート沿いのセブ店は店舗の広さが現状の店舗では手狭になったので、一時閉店して現在新規テナントをさがしております。しばらくはオンライン通販マニラかボラカイへの発注でお願いします。

======ピアスの仕入れ完了2014-02-27
タトゥーアーティストやスケーターはアパレルも去ることながら、ピアスにコダワリの人も多いので、ピアスの卸売業者と提携してフィリピンでの販売を開始します。種類は80品くらいそろえましたが、在庫は各10品づつと少ないので早めにご予約ください。マニラ店に4月前には到着予定です。売り上げに合わせて、品数も増やして行く予定です。
タトゥーサプライは、この半年ほどボラカイとマニラとダヴァオに台風、セブで大型地震などの自然災害で売り上げが伸び悩んでましたが今月は20%増加の最高売上額更新確定です。シェアも70%くらいまできてるかと思います。スケートボードはまだまだ興味あるけど、、周りにやってる人いないし、っていう状況なので普及から必要ですね。イベントを定期的にやって認知度を上げてきます。
パラオではタトゥーショップ自体のスペースがダイビングショップ移転時に無くなってしまったので、ピアスの販売を再開するかは未定です。いいスペースがあれば再開したいのですが。

========2014-02-19スカリーキャンディー、スーパードライ、バンス、ナイキSB、ゲス、バナナ リパブリック、ビンテージ

スケートはフルレンジの商品を仕入れ完了、マニラに2週間後に届くので各ショップにはその後1週間後になる予定です。3月にはスケートボードの素人競技イベントフィリピン初で、ダバオのPCCCモールで開催。かなり過剰な期待されすぎてるけど、まー盛り上げてください。バックアップはうちでしますんで。ランプやその他もうちで準備してます。現在スケートの広告プレイヤー選別中、来週には告知できます。

タイトルにもあるブランドアパレル商品の仕入れも完了。各ショップには1ヶ月後の3月に展示予定です。特にスーパードライは事前予約殺到で、すでに追加仕入れ交渉中です。値段も工場直仕入れだからできる超格安。待っててね。ダバオにニーズあるガールズブランドのゲスやバナナリパブリックも格安販売できます。もちろんレプリカじゃないですよ。アジアや日本のビンテージアパレルも追加仕入れ中です。ママパパ時代の越品をダイソー価格でご提供。

現在、カンボジアでのTRSの出店検討中。場所は追ってお知らせします。
>>すでにスケートショップ2店がポナンペンにて半年前にオープン済みで、オーナーに会いましたが特に10Ksketeのオーナーさんはヤル気満々で経営も上手くいってそうです。いいオーナーさんとは競争したくないので、今後商品の仕入れやスケートボード競技会の協力を誓いました。なので、カンボジアではTRS出店は辞めました。また次の都市のシアムリープは観光業の盛り上がりに伴い経済が成長中ですが、あくまでも観光業のみと判断。出店はなしです。

===========2013-01-20 スケートショップ化

2013年12月に念願のTRSダヴァオ店をオープン。11月にオープン予定でしたが、スケートボード関連の仕入れが間に合わずに12月までずれ込みました。オープン後は順調に売り上げもあり、また周囲にコールセンターが多く、本物とまではいかないまでもクラスAのブランド物にニーズがあり、仕入れをいそいでいるところです。現在スケートパークとまでないかずとも、ランプなどを近くの公園に寄付する事業をフィリピン全土で取り組んでいます。

また、2014年1月からはアメリカでタトゥーコレクターに爆発的人気の「スレン」ブランドのアパレルを仕入れ、来月から各ショップにて販売予定です。これもフィリピン初の試みです。でもすでに事前予約販売もあります。待ちに待った!!というとこでしょうか。

===============2013-07-13タトゥーとスケートの融合


タトゥーサプライの業務は、フィリピンでの堂々たる業界トップを確立、その後スケーターショップのオープンをマニラのタフトで企画してましたが、競争も多くしかもフィリピンで最大手のお店が出店予定だったテナントの近くだったことが判明したためキャンセル、現状のタトゥーサプライ ショップにスケーターブランドのアパレルを揃え、タトゥーとスケーターのニーズに合わせた品揃いに変更中です。



タトゥーアーティストやスケーターの彼女や家族などから、ブランドバッグなどの引き合いも多く、現在香港や日本から仕入れて、バッタものでない本物のブランド商品を格安で販売しております。

===============================第2回、3回放送分


===============================第一回目2013年6月22日放送分



続けて見たい人はユーチューブでログインしてTRSchannel0をフォローしてね。


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2013年6月22日

フィリピン初のタトゥー業界にスポットをあてたドキュメンタリーがチャネル4で放送開始されました。当社タトゥーリパブリックがメインのスポンサーとなって、企画運営しています。最初は毎週15分枠x8回シリーズですが、視聴率よければ先に大きなプロジェクトを立ち上げる予定です。現在流してる告知用ビデオ

最近のフィリピンでのテレビ放送されたインタビューより。

6月からフィリピンの最大手のテレビ局のGMAで6月からマーメルダイバーズで2週間に渡り撮影された水中映像が一ヶ月間に渡り週二回ドキュメンタリーとして放送されます。=====じっさいに放送された分をアップしてます。

 

 フィリピンのタトゥーサプライ業界の予想業界規模の67%を当社リパブリッQ・サプライが占めてました。 ボラカイ店とセブ店は通常どおりで、マニラ店の売り上げ増が目立ちます。5月からの中間報告でも売り上げ上がってきているので、更なるシェアアップが期待できそうです。


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2013年4月18日

  現在2のテレビ ディレクターさんよりタトゥーに関連した映画とテレビのドキュメンタリーの仕事もらっています。ドキュメンタリーのほうは実際にイロイロから片目のアーティストにマニラにきてもらい4月15日に移転オープンしたサプライのお店で30分ほど撮影しました。

  映画のほうはストーリーと予算などの話しを詰めています。コメディーになりそうです。コメディアンの候補者にも会い交渉中です。


2013年3月31日ーーーーーー

フィリピンのテレビ出演が続きます。

   4月から パラオのマーメルダイバーズによるスポンサーで、フィリピンのGMAという最大のテレビ局の撮影がパラオで行われ、1か月分の撮影が行われます。

 

     また、別のチャネル5では、フィリピンのタトゥー業界をドキュメンタリーにする撮影が4月に行われる予定です。その中で「タトゥーリパブリック・サプライ」は、製作に携わるのと同時に出演もする予定です。

 

    また、エキストラのレベルですが、映画のエキストラの話もきてます。乞うご期待!!

 

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2013年3月13日 

  セブのイベントはあまり成功とはいえなかったようです。思惑通りには有名アーティストが集まらなかったのが原因でしょう。特に マニラのDODOTANに比べ外国人アーティストの参加が少なく単なるイチ地方のイベントの感になってしまったようです。

 

  さて、明日フィリピンのチャンネル5で、当社の「リパブリッQ」のマネージャーとその広告アーティストがテレビ取材をうける予定になってます。テレビ放映日はまだ未定ですが、その様子はユーチューブでアップして、ここにもリンクはりますね。タトゥーブームですね。テレビ側からコンタクトしてきてくれました。うれしい限りです。

   http://www.youtube.com/watch?v=iNA7AK30itE

   http://www.youtube.com/watch?v=lP15oOUe27o

 

      この日からタトゥーリパブリックのフェイスブックは、1つのログに100件以上ものコメントがつきブレイクチュー!!

 

  また、当社がスポンサーしているマニラの大学の「オリバレス・カレッジ」のバスケットチームがマニラのトーナメントで優勝しました。おかげで当社の広告バナーもテレビや雑誌に多く映り知名度上がってきました。もちろんタトゥー業界ではフィリピン一位ですが、ほかの業界の方からの連絡もあるようになってきました。

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2013年1月12日

 

 もうすぐフィリピンの第二の都市セブで、大きなタトゥー・コンテストが開かれます。当社の競合サプライヤーの主催なのでイベントの主催側にはたてませんが、リパブリッQのモデル・アーティストの2名が参加するので、そのサポートをしているところです。世界各国からの有名タトゥーアーティストが招待され、マニラ最大のコンテストの「DODOTAN」をしのぐ??とまでうわさされています。実際に盛り上がるのでしょうかね? 

 残念ながら私はパラオのダイビングの事務に忙しくフィリピンに行っている時間はないですが、オンラインで応援しているところです。パラオでのタトゥーショップは、少ないながらも順調にローカルのパラオ人やフィリピン人、たまに港に寄港するアメリカ人ネイビーの人たちが来てくれてます。日本人は全くいないですね。やっぱまだ日本のタトゥーはダークなイメージなんでしょうね。

  

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2012年11月20日

   マニラのアウトレット店は、その後も順調に売り上げも伸びてます。ただ在庫が追いつかずに品不足になることも多く、アウトレット店の限界に気づき始めているこのごとです。やっぱ自己出資の支店に切り替えることも検討中。フィリピンでの売り上げも支店数も業界一位になり、アメリカのタトゥーインク会社のオーナーさんや、タトゥー機材の工場のオーナーさんたちとの知り合いも増え嬉しいばかりです。

 それと同時にフィリピン北部の最大の学生都市のバギオのアウトレット店の要望があり、そのタトゥーショップのオーナー夫妻と合うことになり2013年の1月より当社のタトゥーサプライ「リパブリッQ」がオープンすることになりました。

 

 なのでバギオ店のフランチャズも締め切りです。あとはダバオくらいでしょうか?希望者募集しております。

 

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2012年10月

 

 マニラ店を自己資金での出店準備中でしたが、パラオのダイビングショップのボートが壊れたために資金がそちらにながれ、マニラ店は店舗の契約までしたものの、キャンセルしました。

 ただ、その後マニラ店のフランチャイズに応募があり、マニラ店は来週にでもオープン予定です。なので、マニラでのフランチャイズは締め切りました。 ボラカイ、セブ、マニラ以外の地区なら可能です。また、イロイロ店は町としての規模が小さくロビンソンモールという大きなショッピングモールでの出店にもかかわらず売り上げが伸びずに閉店しました。

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2012年9月17日

その後 タトゥー・サプライ事業をフィリピンで始めてはや5ヶ月。 日々忙しくあっという間でした。

その間に、セブ店、イロイロ店を立ち上げ、業界では規模一位。売り上げでは一位か2位の地位まできました。

あと2ヶ月で投資規模でも、売り上げでもトップになっていることでしょう。

  さて、以前も以前アナウンスしましたが、フランチャーズ店募集中です。売り上げ期待のできるダバオ、バギオ、プエトグリラ、スービックでの新規事業展開を考えていらっしゃる方。メールでご連絡ください。

                           

                                              

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2012年4月6日 

パラオでの事業は、いろいろトラブルあったけど、どうにか順調にいっています。 これからはトラブルのないように、じっくり経営していくのみの状況になったので、ほかの場所での事業を計画。以前、フィリピンのマニラで事業を始めましたが、パラオでトラブルがあり急遽もどりそのまま1年半くらいもの間滞在することになったので、中途半端なままで結局ストップしてしまってました。

 観光業がメインの経験なので、観光地での事業をと思い、フィリピンの最大の観光地である「ボラカイ」にやってきました。すでに経験のあるダイビングショップや、レストラン、タトゥーショップのどれかを立ち上げようとおもっていたのですが、、、、いやいやあまいですねー。たった7KMしかない小さな島に、33件のダイビングショップとたくさんのショップなしフリーのインストラクター、レストランなんて数え切れないほど50-70件といったとこ、タトゥーショップは30件とショップなしのフリーで家やホテルで彫ってくれるアーティストが100人はいるとか。超過当競争マーケットでした。

 パラオなんて10件ほどのダイビングショップ、30件ほどのレストラン、タトゥショップはたったの1件でしたから、観光客の数が桁外れに違うとはいえ、それでもその継続にあたっていろいろ価格競争、過当サービス競争、スタッフの奪い合いなどを経験してきたので、その3倍いや5倍の中での事業は可能ではあっても楽ではないのは確か。悩みました

 結果、その周りでできる事業を模索して、はじめたのがタトゥーショップのサプライヤー。サプライヤーは日本でいう卸業者みたいなもので、事業者向けの販売会社のことですね。ダイビングショップの機材などのサプライヤーは、すでに2社がマニラから進出してました。レストラン向けには、ローカルの会社がたっくさん進出してます。それなら、タトゥーは??マニラには2社があるのですが、ボラカイのタトゥショップは、各自がインターネットで注文してそのたびに、物価のわりに極端に高い郵送費を払って購入してました。規模は小さいが、収支としてはいけそうと思いはじめることに。

 まずは、各商品の仕入先を探し、しつこく交渉と契約。その次はオフィス用の物件探し、ビーチ前の物件はすでに満室。どこも空きなんかありません。ビーチからわき道に入ったところでも、ほとんど無理。あるのは新しい建物のみ、その新しい建物が、結構あるんですね。観光ブームの真っ最中のブラカイに投資する企業はまあまだあります、特に現在は中国系の大型ホテルの開発が進んでいます。そのブームにあてこんで、ローカルの小さな不動産会社がセブ・イロイロから、テナント用やアパート用のビルをがんがん建ててます。

 複雑な物件もありました、かなり欲しかった物件ではありますが。 土地のオーナーAから土地をリースして、その上に10棟ほどのテナント用建物を建てたB, そのB氏からそのうちの1棟を5年で賃貸しているC, そのCが急遽オーストラリアに戻ることになって賃貸に出していたのですが、そのCはその建物に60万ほど改装費用につかったから、その改装への権利を60万で買い取ってくれとのこと。意味がよくわかりません。それなら、普通に賃貸料金を上げてくれればいいのですが、そうはいかないとのことで、調べてみるとAとBのリース契約があと半年ほどで切れることが判明、契約切れてしまったら、そんな権利やらなんやらごみになってしまうから断りました。B氏は、「A氏はあと2年契約延期してくれる約束してるから問題ない」っていいますが、そんな口約束で痛い目にたくさんあった私としては、ダメ物件と判断してキャンセル。

 それらから、どうにかトラブルのなさそうな新しいビルのタトゥ・サプライヤーの予算にあう物件をチョイス。賃貸契約しました。

>>>2012年5月3日

 ショップの改装も終わり、商品の仕入れを始めました。他の業種と同じく仕入れにも縄張りがあったり、競争相手同士のわだかまりなど、いろいろありそんなに簡単には事は進みません。でも、まだまだ新しい業種だし、競争相手も2件しかフィリピン内にいないので、調査も2週間もあれば完了。

 仕入先を探し出し、条件や料金、支払い方法などを確認して、取引先を選別。それから、売れ筋商品ととりあえずそろえておく商品を分けて、注文の数に幅を持たせて、、などとやってたらあっという間に1ヶ月がすぎてしまいました。いろんなところから商品を注文したのですが、届くとうれしいですね。特に、いろいろ調査してきただけあって、実物が届くと感動ものです。それをこれからがんがん売っていかないといけないわけですから、特に探して探して見つけたものに関しては、情がわきますね。特にタトゥーマシーンはそうですね。たっくさんあるデザインや料金の中から売れると思うものを選ぶのはいいが、なんせカタログの写真から選ぶので、なんとも質感がわからない。ま、なんでもトライ!!

 

 商品の仕入れが終わったら、タトゥー・アーティストやショップに名紙を持って営業。すごく喜んでくれる人もいれば、「うちは大手だからアメリカから直輸入です。」と見下されることも。そりゃー4店舗ももってりゃー、直で卸業者に注文するお金も発注数もあるわな。そんなこと気にせずに、がつがつドア訪問。こんなことやったの何年ぶりやろか?日本の福岡で証券会社で株売ってまわってたときを思い出すなー。でも、相手がタトゥー・アーティストですよ、ネクタイなんてしてません。ドレッド・ヘアにピアスだらけのアーティストに営業ってちょっとおもろかったりします。営業とはいえ、ちょっと友達ン家に遊びにいくような感覚です。

 

  5月11日に、フィリピン最大??のタトゥー・コンテストがボラカイで行われます。 バギオやマニラ、セブやイロイロなどで活躍しているタトゥー・アーティストがそろって、アーティストの腕前を競います。当社もスポンサーとなって、私自身もコンテストの審査員として参加します。 お店の商品もそのころにはすべてそろっていることでしょう。楽しみです。

 

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 2011年4月

 

  パラオでの観光業がおちつくこの時期。なにか新しい事業展開ができないか社内で検討した結果、フィリピンやマレーシアやバリの観光地で爆発的人気のタトゥーショップをパラオ発でやってみようということになりました。マニラでアーティストをスカウト、営業許可に時間とったもののどうにか許可もでてはじめることになりました。

  最初は予約40人待ちほどの大人気でしたが、1ヶ月もするとおちつきました。その後、アーティストがショップを通さずに外でタトゥーをするようになり、他のアーティストに切り替えたりといろいろありましたが、順調です。

========2007年9月2日=== フィリピン

 パラオでのダイビングの事業の行き詰まりを少し感じるこのごろ。何かできないかとフィリピンに行ってきました。パラオからはたったの飛行機で2時間。パラオにはフィリピン人がたくさん住んでいるので、さそど違和感のない国。
 今回ですでに4回目になるが、あまりに違和感がなくて少しつまらなく感じることもある。いつも滞在するのは、マラテ近辺なぜか土地勘があるからもう他の場所だとめんどいからだ。いつも泊るビジネスホテルは一泊$35ほど。パラオだと超格安ホテルだが、マニラは、この値段帯でもかなり立派な日本のビジネスホテル並の施設に泊れる。特に絶賛することもないホテルだが、安全と便利さではピカイチですねー。
 結局この界隈は、歩いてうろうろするには不便だし、道が悪いし、ものごいもいて面倒だから、買い物やお金を両替したりするのは、ショッピングモールになる。カードも使えるしね。そうなるとショッピングモールに近いことにこしたことはない、ここだと2分とかからない。
 いつも友達とかとうろうろしてたりしていたが、今回は全くの1人なので、とにかく歩いてみた。生活感を感じてみたかったので。でも、実際にうろうろしていると、いちゃもんつけてくるちょっと目のいっている浮浪者みたいなのや、歩道でどうどうと立ちションしているやつや、車が通っているのに、横断歩道でもないようなところで、ゆっくり横断して車を渋滞させているやつなど、いろんな変なのがいますね。
 ショッピングセンターもお給料がかなり安いらしく、しかも使い捨てでサービスがよくない人も多いし、これってパラオもいっしょだけど。。。。いやなところもいろいろと見てて来た。ま、今回は特に実のある話もなくパラオに帰国します。

=====1999年私がカープを辞めた訳======

よく聞かれたので、改めて記憶のあるうちに残しておきます。パラオのカープリゾートに働き始め人生が変わりました。海の潮、お客さんの嗜好、天気、時間を考えながらの日々の生活と仕事に燃えてました。入社時にいた日本人スタッフ6人は、私が入社を同じタイミングで4人が自己退社、残る二人の女性イントラがたった二ヶ月ですべてを私に引継ぎ、彼女たちも去って行きました。
それからは日々忙しくて、一生懸命であっという間の2年間でした。予約業務から清算、スケジュール管理などすべてやらなければいけなかったんで。つまり実質マネージャーでした。オーナーのIさんは同じ建物に住んではいるものに、ほとんど部屋をでることなく会っても挨拶程度でした。で、私のお給料は住居と食事が無料とはいえ月に$250でした。それで、1年後にお給料のことをオーナーに手紙を書くと、(直接電話や会っても話しかけても、すぐにどっか裏に引っ込んでしまうので手紙しかない) 、「それじゃー$600にあげてやる、その後はインストラクターになってから$800にあげてあげる」との内容でした。今でもそうですがパラオの公務員のお給料は平社員で月$550なので、とりあえず$600になり喜んだもののその仕事量と責任の重さから不満を持つようになりました。
同じ時期に働いていたパラオ人の先輩ガイドのデクスターも私と同じ給料で、しかも彼はすでにその時4年くらいはガイドしてました。で彼も同じ条件を聞かされてて、グアムのイントラコースに参加して晴れてイントラとして戻ってきました。しかし、お給料はあげてもらえずデクスターがオーナーに話しかけても、忙しい、、と無視されるだけでした。彼はその後ショップにこなくなり、サムズツアーという他のショップでガイドしてるのを見かけるようになりました。これには私もかなりショックで、あと3ヶ月で切れる契約を前に悩みました。で、そのことをその当時カープに年に一回は来ていたダイビングサービスのオーナー生駒さんに相談すると「独立すれば?ダイビングショップなんて何も難しいことない」と言われました。今でも鮮明に覚えてます、レストラン横の砂の上で月の光の明るい夜でした。

1週間ほど悩み、オーナーにお給料上がらないなら辞める旨の手紙を書くと、翌月から月$800に昇給してました。日本で30万くらい証券会社でもらってたので、なんてことないですが、それでも譲歩してくれたオーナーさんと急に起こってきた独立心にゆれ、結局独立を選びました。そのことを社長に伝えにいくと、机を拳を叩きつけて「なんでパラオじゃなきゃだめなんだ!せめて他の国にしろ!」「俺は何も手伝いはせんから、さっさとと出てけ!」と言われ、その後は一切話すきっかけもなく今にいたります。

その時期オーナーは仕切りに「何かあれば娘のマリに相談しろ」と言ってたので、娘に継がせようと努力してたんでしょうね。ワンマンでやってたオーナーのIさんなりの考えでしょうが、そのことを説明してくれればいいけど、ただマリに相談しろって言われて、娘さんに相談したくても娘さんは、アパートに彼氏と住んでて一週間に一回ほど出てきて「大丈夫ーー?」「はい、なんとか」「新しくこのカメラ買ったの、どう?」みたいな写真とブティックをオープンするのに一生懸命でカープの経営に興味ゼロ。むちゃくちゃだったよなーあのころ。でもむちゃくちゃな状況のおかげで今の自分があるんだと思う。何にも知らないパラオで3ヶ月目でショップ仕切ってたんですからね。ガイドも2ヶ月目から一人でやってたし、いいかわるいかわかんないけどダイマスしか持ってないのに、イントラいないから講習も日々やってた。


でも今思うとオーナーの言った最後の言葉の意味がよーーーーくわかる。その後に知ったことだが、うちらの前の世代の日本人ガイドたちが、独立して立ち上げたのが、「ブルーマーリン」そこからまた独立で「アンテロープ」だったりしたわけだからその時期に旅行会社やらお客さんやらごっそり取られた経験されたんでしょうね。今私がこの8年ほどで経験したことをすでに何回も経験済みだったんですね。でもその当時はなぜそんなに怒るのか理解できなかった。すみません初めてしまったもには簡単には終われないですから。ただ、その時はまだ今のようにインターネットも発達してなく今みたくFacebookやツイッターなどでガイドとゲストが日々連絡とってるわけでもなかったから、今ほどひどくはなかったとは思います。


========2001年6月12日 「ペリリュー島発見」---------

今やっと1年この島に住んだことになる。パラオというダイバー以外にあまり知られていない、小さな島パラオのそれも離島のペリリュー。
私のパラオでの経歴を話すと、証券マン時代にダイビングのライセンスを取ったものの、九州近辺のダイブスポットはにごにごで楽しみといったら、ウニの水中でのつまみ食い。というよりも、ダイビング後のキャンプやら飲み会やらでダイビング自体はしんどいだけでおもしろくない。そんなのは、他のレジャーでもいいわけで、辞めようかとも思いました。そのことを、ショップのインストラクターに相談すると、「海外を潜れば面白いよ」といわれて、「それじゃ、どこ?」と聞くと「パラオだね--」で、その年のボーナスを使ってパラオ旅行に行きました。
ダイブスポットに近いということで、カープアイランドに予約を取り、ダイビング初日。いきなしのペリリュー・エクスプレス。でも全く情報をもってないために、そこがどんなポイントかも知らずに、エントリー。流れがすごく速く、がんがん流される。ドリフトダイブも初めてなので、「へーーこんなものなんだ」と思いながらダイビング終了。しかしここからが大変。周りはうねりのある海だけで、周りに何も見えない。ボートもピックアップに来ない。ガイドはパラオ人だったのですが、アシスタントの日本人に「こんなことよくあるの?」と聞くと、そのカープで働き初めて2ヶ月目の彼も「こんなの初めてです」とのこと。かなりびびっている様子。それから、みんな波酔いでもどしながら、約1時間ほど水面をダイバー7人で漂流してました。
遠くにアンガウル島(その時はなんの島かはもちろン知らない。)が大きくなってきて、小さな小船が見える。必至にガイドはホイッスルで合図をして、気づいてくれた。その漁師さんが、ペリリューまですっとばして、カープさんのボートを呼んできてくれたので無事救出。みんな波酔いでへばって、会話できない。海外でのダイビングが恐いなと思った。やっぱダイビングは止めるべきだと。
その後は、特に問題なくダイビングをこなし、マンタやバラクーだやサメを見て楽しんだ。とにかく透明度がいい。初日に漂流した話は毎日の笑い話と化してしまった。事故の理由は、ボート運転手が釣りをしていて、ダイバーの泡を追いかけてなかったためとのお店の説明。冗談じゃないですよね。こっちは遊びに来たのに。でもその後の海がよかったから、その話は終わり。
パラオの海に感動して、ちょうど私の証券会社の先があまり長くないと思っていたので、働くことを決心。コロール島に戻ったときに、社長に口をきいてもらって、履歴書を送付するようにとのことで、日本に帰る。
履歴書を送付すると1月後くらいに、日本の事務所からパラオに研修に行くようにとの通知があり、そのすぐ数日後に会社に辞表を提出。パラオに渡りました。
1月ほどの研修を終え、改めて働くことを確信して、社長さんからもOKをもらい、日本に一度帰り、ビザの書類をそろえパラオに本格的に働くことになる。
半年ほどは、コロール島に滞在して、カープ島には2年間。毎日、ダイビングに出て、お客さんと酒飲んで、踊って、釣りしてました。
でもどんなにいい島でも1年もいれば、飽きてしまいます。とくにこの会社は全くの自由がないので、コロール島にショッピングに行くことさえも許されない。行くとすれば、強行突破しかない、もちろん怒られるのを承知で。それで、どうしても詰まったときに、カヤックで隣の隣にあるペリリュー島に行くことを考え、実際夜中に数人で遊びに行ってました。この島は、マリファナの栽培で有名な島だったし、戦争の跡がいっぱいあるとのことで、少し恐い印象がありました。でも実際はのんびりとした南の島で、人柄も穏やかな人が多く、すぐに友達になれ楽しい。それから、よく夜中にこっそりとペリリュー島に行くようになりました。ばれてこっぴどくしかられたりもしましたが、それがあったからこそ、2年間も働けたのだと思います。
それから、日本に帰り、仕事を探すがなかなかいい職がない。日本はかなり深刻な不景気。かといってこの2年間に日本はかなり変化していて、コンピューターのことなんて、かなり遅れてしまっている。雇われるのも条件悪いし、商売しようにも景気が悪い。それじゃ、またパラオに戻ろうと思い、同じことやってもつまらないので、いっそのこと自分であの思い出のペリリュー島でダイブショップをしよう!という考えになりました。かなり安直だったかもしれません。普通は視察を重ねたり、実際に住んでみたりしてから考えるのでしょうが、私には、その島での生活しか考えられなかったし、コロール島がたまらなく嫌いだったので、パラオに着いてすぐペリリュー島に移住しました。
最初は結構、ココロぼそかったですよ。知り合いは、数人のパラオ人しかいないし、3室1ダイニングルームの結構広い家を1人で借りてたから、さみしかったです。シャブの売人と勘違いされて、夜な夜なパラオ人が、「アイスを売ってくれ」と毎日訪ねてくる。ちょっと疲れました。ほんの2カー3ヶ月ほどですが。
でも、今では、島中の人を知っているし、向こうも知っているし、楽で楽しいですよ。自由で、静かで、のんびりしている、かつ自分の仕事がある。最高な生活です。この島との出会いが私の転換期になったと思います。みんなにこの島を知ってもらうことが、自分の使命のように思ってます。

1994年4月21日 「初ダイブ」--------
誰も海を嫌いな人はいないだろう。波の音、気持ちよい風、白い砂浜、青い空、青い海。私も当然ながら憧れ、小さいときからよく海水浴には親につれられていったものだ。ただ父が釣りを趣味で始めだしたので、それからはもっぱら堤防がある場所に行くようになる。
 大学生の時、短大生の友達がダイビングのショップでアルバイトを始めたといい、暇なんで一度お店に遊びに来ないか、と誘いを受ける。その時期、暇な時間なんていくらでもあった。数日後、お店に車で行ってみると、白と青を使った装飾でいかにも海関係のショップといったかんじだった。
 友達は暇そうに、ダイビング機材のカタログを見ている。うちらの周りで起こった世間話をしていると、友達が何気なく内線電話をいれる。
 「この前話していた友達が、今来ています」それだけ言うと、電話を置く。
 「誰?、」
 「オーナーのTさん」
 すると入り口のドアが開き、いかにも海の仕事していますといった感じの小麦色肌の30才代の人が入ってきた。
 「こんにちは、馬場くん」
 その時、なぜこの人が私の名前を知っているのか不思議だったが、ま世間話でもしているときに、私の名前がでたのだろうと思って気にしなかった。
 だが、その後えいえんと2時間ぐらいダイビングの事を説明され、訳の解らぬ私は2人の勢いにおされCカードというものを取ることになる。なんとなくうまく調子に乗せられたような気もしたが、まんざらでもなっかた。
 それから数日後に夕方に隣の建物の2階で講義を受け、その1週間後の日曜日に海に潜ることとなった。ちなみに、その前日の土曜日は100人くらい収容できるハコを貸し切って、パーティーをする予定があった。そのため、この一週間とにかくチケットをさばくのでいっしょうけんめいで、海のことなんか忘れていた。
 パーティーは予想以上の人数がはいり、盛り上がった。お客さんがひけたのが朝の3時。それから片づけをしてクラブを閉めたのが4時くらい。だが、もうその時私はべろんべろんに酔っぱらっていた。なんせどうやって家に帰ったのかも覚えていない。
 朝、8時くらいに電話。
 「馬場くん、ねっとったん?今日海の講習の日よ。集合が9時やから、遅れんようにね」
 もうなんのことやら、全く解らない。聞いたような友達の声。あーーーーー。
 二日酔いで頭痛くて、動けない。どうにか服を着替えて車に向かう。お店までどう飛ばしても40分はかかってしまう。気持ち悪い。
 どうにか遅れはしたものの到着。T氏はやけに元気がいい。お客は私とここでバイトを始めた友達。彼女も講習を受けている最中とのこと。8人乗りのバンに乗り込み、都市高速を乗って3時間くらいの山口県の青海島の近くのビーチに行くらしい。から元気で出発したがいいが、車酔い。途中なんども戻しそうになりながら、なんとか到着。
 すんごいきれいなビーチだ、とその時は思った。たぶん今見ればどこにでもあるビーチなんだろうが、車酔いから解放されたのと、今朝まで真っ暗なハコの中にいたためか、まぶしいくらいの白浜だった。その後T氏はしゃんしゃんと準備を終わらせ、簡単に説明をし、私も海パンにウエット・スーツとやらを着て、砂浜に出た。BCだのレギだの訳のわからぬ物を着せられ、いざ海の中へ。
 少しうねりがあり、沖まで水面移動。これがこたえた。なんせ二日酔いに、車での長距離移動。それからすぐうねり、体力の限界である。ギブ・アップ。友達とT氏は元気に沖まででて、講習を始めたが、私はビーチで真っ青な顔で横になった。日差しが強いので、海の家みたいな建物のなかに移動すると、ベテラン・ダイバーぽいおじさんが、話かけてきた。静かにしてほしいのだが、頭がガンガンするので、しょうがなくビーチに海水浴客みたく寝そべった。
 2人は無事講習を終え、みんなでランチをとった。Tは次は大丈夫だからというが、私には何が大丈夫なのか理解できず、2本目も棄権。結局私はその日、BCとやらをどう使うのかわからぬまま、北九州まで戻ったのであった。

1994年 「小倉駅前」------

北九州の小倉駅前
 大学3年の夏、アメリカから帰ってきてなんにも変わらない小倉の街に戻る。実家・大学の友達たちに連絡をすると、みな前と変わらず元気そう。なんとなく、一仕事終えた気分でいつもの生活を送っていると、ふとニューヨークのチャイナタウンの近くのキャナルストリート近くの倉庫みたいなショップでインラインスケートを買ったのを思い出した。よくセントラルパークをみんなの見よう見まねで練習して、結構上手くなった。そうそう、そのセントラルパークでインラインをはいてジョギングしているときにまだ買ったばかりのインラインをはいて、キャーキャー言いながら2人で走っている大学生くらいの女の子が私の横を結構なスピードで通り過ぎたのはいいが、その後急なカーブを抜けるとその内の1人がもろこけていて頭を打ったらしく金髪のロングが血塗れ。ぞっとした、その子はもうパニくっていて泣きわめいている。周りのどうしたらよいのかと立ち止まる人々の目、それからこの道は公園の中ではあるが、あくまでも公道で車も走っていたので、青いトラックがその様子を見て救急車を呼びに急いで走っていった。私はどうしていいか分からずそのパニクッている彼女を一生懸命落ちつかせようとする友達の横で唖然としていた。今思い出しても身震いのするくらい出血量が多かった。3分くらいして救急車が来て彼女とその友達を乗せて去っていった。その日はインラインを脱ぎ、歩いて帰ることにした、そのあまりの悲惨さに多少体が怯えていた。そういう事件もあったがその後も暇さえあれば自転車がわりに利用していた。そう、日本でもやってみようと思った。まだ少なくとも九州で滑っている人は見かけたことがなく、ちょっとした先駆者のつもりで楽しかったのもある、次の日から町中で滑ってみることにした。
 小倉駅前のそごうの前の広場で、何ともなしに滑るようになる。はっきりいって少し恥ずかしいが、異物を見るような人々の目がおもしろく自分がいままでの人たちから向けられる視線との違いを楽しんでいた。もちろん警備員に注意されたり、警察に厄介者にされたりとめんどいことは多かったが、それがまたいままでなんとも気にならなかった世界がみれて刺激になる。また駅前というのもあり、そこには様々な人間模様を見ることができる。白髪の浮浪者ふうのおじさん、いつもうすい茶色のコートを着て、左手には電動こけしを持ちそれをハンカチの下に隠し、女子高校生とかの歩いてくるのをじっと待つ、近くまで来ると別に声をだすでもなしそのハンカチをポケットにしまう。それに気づく子たちもいるが気づかない子たちもいる、もちろん気づいてくれたほうが彼は楽しいらしい。少しだけ顔の皺が深くなる、いつもの平日の光景。路上でリングとかを売っている金髪の外人男性になにかごそごそと話しかけている、ちんぴら風のスーツの男。たまに来るおやじとおばさんでなんかわからないがいつもつまらないことで大声で喧嘩している、周りの歩行者にとってみればおおきな迷惑というか、「喧嘩だ」みたいな感じで楽しんで立ち止まって見ている人たちが多いが、見られるのを楽しんでいる、彼らにしてみれば理由はなんでもよく日々の欲求不満の解消のための舞台なのであろう。
 いつもマックかコンビニで食事をとる、夕食も昼食も同じ食事。たまにスーツを着てつまらなそうに歩いている営業マンをつけて、何を売り込んでいるのか食事代を賭ける。たいがいはずれるからたんなる暇つぶし。向こうにしてみれば「お前ら平日から暇そうにしてて、いいよな、あすまでにあれをどうにか目標までにしないとしかられるよな、あーあ」ってな感じ。そのときの彼女に色々と教えてくるいるうちに、だんだんとはまっているみたいだ。自分も前にもましておもしろくなってきてくる。ポールをたててスラロームをしたり、階段をバックで降りてみたり、ジャンプ台をつかったりと楽に欲がでてくる、やめときゃいいものをいいとこみせたいがために腰痛めたり手首やられたりする。そのうち私の弟が学校を中退してアルバイトを探しに実家の田舎から訪ねてきたため、安物のインラインを与えてやり3人で小倉のそごうの前でインラインスケートを始めることになる。のちに少しづつ興味有る人数が増えてくる。弟と同い年で、ある会社の御曹司と子どもができてしまって、その男の両親から大阪を追い出されて戸畑で土方仕事をやっているナオや1人自転車旅をしているなんてうそをついてた家出小学生やむちゃくちゃませたスケボ中学生とかと知り合いつるむようになる。私も親分みたいな感じで飲みに連れていってやったり、夜遅くまでトランプしたり、私が家庭教師をしたり(これは結構な収入となった)、大学に行くよりここの世界のほうが何倍も笑った。人数は15人を超す位まで増えたのではないだろうか。だんだんと目立つようになり小倉そごうの警備員さんについに追い出され、小倉城に移動することになる。

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1996年1月29日 「安らかなる枕が欲しい」-----

 やすらかなるマクラをほしい!
 朝起きて大学に足を運ぼうとしたら、玄関に警官が数人何やらあわただしく動いていた。「なんかあったん?」同じ語学研修生でフランス人のヴェネディクトに聞くと「女の子が飛び降り自殺したらしいよ」野次馬根性で見に行こうとしたのだが、サルツバーガーというその棟には硬くガードがあってその建物には入らせてくれない。なんでもすでに死体は運ばれてしまっているとのことであった。その子が飛び降りたのは夜中ので、発見されたのは日が明けた頃だったらしい、残念ながら友達でその悲惨な光景を見ることができた人はいなかったらしく、詳しい情報は入ってこなかった。
 しょうがなく学校に行くと、もちろんその話でもちきりで関東の医大生の黒田が言うには、飛び降りたのは研修生ではなく、コロンビア大学の学生でアメリカ人とのこと。彼女はドラッグをやっていたらしいのだが、その最高なときに空を飛べるとでも思ったのだろうか3階から飛び降りた。のちに彼女は命は助かったということを聞いた。なにか辛いことがあったのだろうか、それともただ単に頭がぶっとんでいたのであろうか。
 その日の晩友達4人と飛び降りた彼女の部屋に面している中庭でフリスビーを投げて遊んでいたことを思い出した。友達のエミリアーノ-----彼は父親が大学の先生でアメリカ・イギリス・日本と行くたびについていっていたので日本語も少し話せるおもろいイタリア人男性-----がフリスビーをいろんな方法で投げるので、それを見ようみまねでいろいろ練習していた。緑の芝が生えていて太陽の光はあまり入らないが、みんなの憩いの場であり、情報交換の場であり、フリスビー練習所であった。そこに女の子が飛び降りて横たわっていたとは。
 その2ー3日後、同じ寮で日本人女性の自殺。またドラックかなと思っているとそうではなっかたらしい。彼女は長い間、日本の大学を休学しており、コロンビアのALP(American English Learning Program)で勉強しながら、アメリカの大学に入学しようと思っていたらしくて、日々勉強にがんばっていた。しかし、ルームメイトが遊び好きで生活のリズムが不規則で、なかなか集中して勉強できず、ノイローゼ気味になっていた。大学の入学の重要課題のトーフルの結果もおもわしくなく、1人で飛び出した勢いもあり日本に帰ることもできず、行き場がなくなりついに、足を天に運んでしまった。自分の手首をナイフで切って。
 親・兄弟・友達、泣いただろうか。異国の地で彼女の苦痛を何も知らずにメシ食べて、「Aは元気にやっとるかのー?」「こん前の手紙では英語の点数が上がってきたって書いてあったよ」「やけど心配やな」「Aはお父さんが考えるよりしっかりしてますよ」なんて話していたんと違うかな。友達も同窓会とかで「AはアメリカのNYで学校にいってるらしいよ。なんでもコロンビア大学っていうとこ」「すごいなー。おれも一回は行ってみたいよな」なんて具合にやってたんだと思う。それが手首を切って自殺、訳がわからなっかっただろう。泣くにも泣けなっかったと思う。しかしこんなことで自殺を考えるなんて、なんてお嬢様なんだろうと思ってしまう。人生どうひっくり返るかわからないのに、もっとドミノの枝を増やして行けばいろんな事が見えてくるし、大学なんかがそう重要ではないのにそう勘違いしてしまう無知。
 彼女はおそらく夢をもってここにきたのだろう。その夢をかたくなまでにこだわった。私は夢もなにもなくただ単にいろんな人に出会いたかったし、運良く資金もできた。ポンと電車にでも乗って隣町に行くような感じでここに来てしまったから、なんのこだわりもない。しかしここに来ている大勢の若い人たちは夢に近づくため、または、探すために来ている人が多い。エバァンスとキャッシーはファッション・デザイナー、ヨシと黒田はアメリカで病院を経営したいとのことで、いろんな病院を訪ねていた、ミンと優はアート・デザイナー、ウージョンは政治家。特に私の知る限り、中国人やロシア人は強烈なまでになにかを吸収しようと、目がぎょろぎょろしている。経済的なものもあるのだろうが。なにも焦る必要はない、ゆっくりと目の前のことを理解することに私は時間を費やした。 ドミノが止まってしまわないように、みんな一生懸命に妥協と葛藤を繰り返しながら、笑って生きようとしている。1人で生活するには孤独すぎるニューヨーク、また行きたい。今は景気がいいからどうなんだろうか。

                                   1998.1.29


                     

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